令和 若先生

#情報に頼りすぎ囚われる物者は やがて自らの目的地に辿り着けずに

その原因を指導者へと向け 怒りを露わにするが、そのような民を作るのも

今日の政治やかつての宗教やの狙いとも言えることへの警戒は必要な時代へと進む

#この国の政治には既に怪しげな心境者らが属してしまっているため、先行きの怖さは現実のものとしてある本来は人の心を養う信仰力 その人の心としての働きかを分け与える政治力 指南役に徹する師範をなるものが居てこそ、暮らしの道もまよわず作り続けられ 世の中の成長性ともなる

#師範

#指南役

 

・日本なる國はそこに重きを置くものが心して指南し道を開く國なるが故 神の道の國となる、みえる先を計り見る心 それが神の意味である

・そのような心得の持つ者を現代において「カリスマ」と呼ぶ

 余計な欲に計られないもの

・それは一人一人の真の道を築く日を送るに同じ

・自分の見極めは自分でせねばならない.できぬものは、できる者に遣えねばならぬもの

∟見極めのでいる者は、その分、他より重き責任感を持たねばならない。

∟腹をくくれる者は見極めのできる者

かつて 

この国も 天皇を玉璽(ぎょくじ)とし 一部の名もない族が政治を収奪し日本教とも言える帝国国家の下に、「人民皆豊かという嘘を風潮し人民の命までをも収奪し挙句は、最悪の暮らしを強いたことをこの国だからこそ忘れてはならない)

またその最悪の下に不満足ひとついわずに 先々の人の喜びと幸せのみを日々思考しながら この国の新たな土台を築き上げてくれたかつての人々の恩恵の上に今もなお のうのうと居られることも忘れてはならない

 

とはしるし/印形/判/秦時代以来における天子の印などの意味をもつ漢字

#身の丈をわきまえて行動しなさい =ギョク、しるし)

#自分の身の丈を振り返り、身の丈以上の事は傲慢さにつながる

 

・惠と与えの違い

∟人というのは 惠の下に生かされ喜ぶもの

 それがいつしか与えれらることに求めを多くに向けると一瞬は与えられた下に 

 暮らしはすすめども 生かされているという喜びが薄らぎ 依って惠いう自然界からの縁や結びも限られてしまうもの

人が人に与えることは簡単にできたとしても 本来は誰もが自然から恵まれたその命を

あたえられた自らの肉体に限りに生かせるものであれば生きる進めにおいては、その身に合わせ必要なものが必要な時に 縁あって結ばれるからだを自ら作らねばならないものである。

 

今の代においてはあまりに与えられることのみをもとめすぎ、自分を作り直し

変えることもせに求める者 が如何に多いかを現在の世の惠みとしての表れに生じている

 

自然に起こる 天災も人災も考え直さねばという 事の起こりとしての惠みであるが

この恵みは人にとっては好まぬ恵みであろうが、厳しい恵みもまた自分をかえなければならないと気づかせる事においては「好ましい恵」である

 

これからは 他人よりも先ず自分を作り変えることを出来ない人から現実の厳しさの

底に落ちてしまいやすい時代となるであろう。

 

 

「家」と「族」

古き良き時代 古き荒れた時代 近き知るところの良き時代、近き知るところの荒れた時代、そして今まで良き時代、これからむかうであろう荒れた時代へと・・・


人は幾度となく同じことを繰り返す中、人としての和やかな心ある暮らしを習わずして世を賑わせるに止らぬ騒がしき遊び心ばかりを覚えてしまいやがで荒ぶ心と化すはいつの時代においてもそれを繰り返すの人の性であり 今こそがその時を迎えた

良き時代、和やかな時代においては、人民の暮らしを整えることのできる

各道に於いての「家」がある 今の言葉を借りるなら、政治家、実業家、研究家など

「家」とは音にして「力」の意味をもつ

依って「時間」「場」「私財」「知識財(知的財産権など皆無)」などを世のため

人のためいに幾らでも投じ その下に人を育て 世に新しさを与えそして得たものは先ずは下に従く者たちに配った後に 自らの利心得た者たちである

 

現在はこの家が無くなり 変わりに「族」なるならず者が世の中を牛耳り喰い散らかしている地代に変貌し すでに長い時間となる

 

これを 「政治や」「実業や」「研究や」などど称す

 

この様な族が、謳歌し遊び過ごせるようでは 世も末 やがてはその者たちを元に荒びゆく世の中になるであろう

その日はけして遠くない日である、肉体に病魔が蝕ん(むしばむ)でいる事に気づかず 普通に過ごしていたある日 突然倒れるが如くの世の中の倒れる姿が浮かび見えては消え また浮かび見えては消えを繰り返してきてこの30年あまり 

そろそろヤカラたちの嘯く(うそぶく)様の下に灯火(とうか)も吹く風に消される時にある

 

時代の変わり目には何かしらの見え伝え来ない深い意味に気づかされる時でもある

30年なるはその節目にして古よりあるもの。

 

人も30歳にして気づかぬは 一生世に吹かれゆくままに過ごしかねないのと同じ

この節目を迎え自らを自らによって育て直す 作り変える意思のある者も多くには出づ

これも怠けものとして遊び転じていては自らの暮らしを自ら荒ばせてしまうであよう

 

あと 3年以内に自身を変えられないものは 流され暮らすだけとなる 

2019年5月~2022年6月 3年

 

「自然界との祭り」

自然界においては 人の解く数においては捉えきれぬ無限像というものによってすべての摂理は成り立っている

したがって 現代人のように 頭を数にばかり囚われる暮らしぶりになれば、やがて自然界の無限界の無限像に敵わぬ結果を招き易くしているのも現代人そのものである

 

数に学ぶことは必要であれども 人の扱える数には限度があるもの

それを知らずして 人の成功の為にだけ数を進めれば 自らの扱えぬ様をも招く

よって自然界との釣り合いに乱れを生じさせ 人によって人を混乱させよう

人は自らの能力に慢心すると 自分で生きていると錯覚し 滅ぼし易くなる

即ち古くからこの国に伝わる 祭り合わせの下に生かされ恵まれるという 直き感謝の念を失う

直き感謝の念が齢重ねる毎に高まるものは、如何なることへも、怒りを持たぬ人を喜ばせると相成る

先に経つ者に不満がなければ 後に従く者たちにも不平は言わず、依って

これからの時代に残れるは「日々に不満、不平を言わぬもののみ恵まれるのが自然にいかされる生命あるものである」

 

人は食せねばいきてはいけず しかし 喰い散らかすような食となっては自らの肉体を痛めてしまうのも自然なこと

 

現代病の癌を含む様々な疾患は、自らが体に作るもの すなわり自らの体に必要元にある数に収めず、食すを忘れ 西洋人のように喰うになったがゆえに 風土に合わせ作り

与えられた肉体の自然をも崩すこととなった

 

日本人なら祭りの習いの一つ 食せることの惠身を感謝する心

「いただきます」の意味をよくしるべし

尊い自然界からの命を分け預かり その命の亡骸を無駄にすることなく

整えた後にその命を我が身に生かせて頂きますという実に繊細な心の持ち主 それが

日本の人であり大陸 今の西洋の習いにはない その心得を今一度知るべき時

すべての暮らしぶりに共有しているもの

「いただきます」の感謝の念

数に囚われる人種に成り下がるはやがて自らによって自らを滅ぼしかねないものとなる

日本人の祭りの習いには その忘れてはならない意味の深さが本来はあるもの

それを解くべき 今は神主とういヤカラになり下がったまま 150年経った今も

変わろうとせず習うことを忘れたならず者であろうか、であれば現代の日本の生活者も解ろうとしないのも当然か。

 

したがって いきるための食による健全な肉体を宿せぬばかりか、暮らしを脅かす自然界からの未知数な動きに益々最悩まれる事 へも繋がる

 

深海にうごめく脈は、さらに高まりつつ決壊するのもほど遠くはないと年々と相成り。

上空を揺らす風が静まり止む時には地上を揺らす熱に溢れる

今 流れ動くは 相模の國の沖、日向の國の沖、いづれかが先に動くことは止められるのも計り知れぬ数だからこそ。

人は頭でばかり和を追えば 必ず止められぬ数に人は追われる姿を自ら作りだしてしまうのも人 昔も今も人に同じ 人は頭ばかりに囚われると心得られぬ人となり学べぬ者となってしまう。それも人たる所以(ゆえん)だからこそ生かされるのでもある。

 

合戦=分け合う=地域=会社=家族=共同=分け与える=分けてもらえる自分になる

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私たち人間が、なぜ“組織”というものを作るのか、と言えば、それは、人間が集まり組織を形成することによって、単なる“個々の人間の力の集合”を超える大きな力を発揮することができるからだ。組織が、単に個々の人間の力の合計に等しいものであれば、“組織”を作る意味はない。

 

 一方、ただ単に“組織”を作りさえすれば、それでよいかと言えば、そうでもない。“組織”が、個々の人間の力の集合を超える力を発揮するためには、一定の“条件”が必要だ。その条件とは、第一に目的を真に共有すること、そして、第二にその目的の実現に向かって組織のメンバー全員が一致協力することだ。「綱領」が前者を意図したものであり、この「信条」が後者を意図したものと言ってよい。この「信条」は、今の言葉で言えば、“協力関係”あるいは“チームワーク”ということになる。